スペクトラム拡散は、一見すると周波数帯域を余分に必要とする。しかしデジタル無線通信にとってスペクトラム拡散を導入する利点は多い。通信チャンネルの容量が増える、データのセキュリティが向上する、妨害波に負けない、信号強度の変動に強い、といった効果が見込める。
無線通信が花開き始めたのは、1915年のことである。この年、米国大陸を横断する無線電話サービスが始まった。米国で商用ラジオ放送が開始されたのは1920年。次の年には警察のパトカー無線が実用化された。1935年には、無線を利用した国際電話サービスが始まった。
このころ、無線技術が最も盛んに利用されたのは、ラジオ放送である。世界各地でラジオ放送がブームとなった。しかし周波数帯域に対する規制がなかったことから、ラジオ放送局の乱立は電波干渉と受信品質の低下を招くこととなった。このため、受信品質の確保を目的に周波数利用は免許制となった。電波干渉の対策には免許制だけでなく、技術開発も必要とされた。
もっとも、全ての周波数帯域が免許制となったわけではない。非常に短い距離での無線通信に利用できる帯域は、いろいろな用途に使えるべく、開放された。例えば建物内だけで通信する場合には、別の建物内の無線通信と干渉する恐れが少ない。同じ周波数帯域の利用を別の場所で制限する理由はなく、周波数資源の有効利用の観点からは、規制が存在しないことが望ましい。
自由に使える周波数帯域では、利用者が増大すると電波干渉の恐れが高まる。そこで干渉を緩和する技術が重要になる。その1つが「スペクトラム拡散」技術である。
スペクトラム拡散技術の概念が生まれたのは1940年代の初めであり、かなり早い。その価値が認められて実用になったのは1980年代のことで、用途は軍用無線である。データの安全性が高いこと、電波妨害(ジャミング)に強いことなどが、評価された理由だ。
スペクトラム拡散による信号伝送では、信号伝送に必要な周波数帯域幅をわざと広げてやる。信号伝送に必要な周波数帯域幅の最小値(fm)を、より広い値(fs)に変換してから、伝送する(図1)。消費電力はほぼ変わらない。信号の送信期間は同じであり、周波数特性だけが変化するからだ。
スペクトラム拡散技術には、周波数ホッピング(FHSS:frequency-hopping spread spectrum)技術と、直接拡散(DSSS:direct sequence spread spectrum)技術がある。Bluetoothといった無線通信ネットワークの物理層には、スペクトラム拡散を採用していることが少なくない。
スペクトラム拡散は、周波数帯域を無駄に使っているように見えるかもしれない。実際には、スペクトラム拡散によって通信チャンネルの容量は拡大する。
シャノン・ハートレーの定理によると、チャンネル容量(あるいは同時にアクセス可能なユーザー数の最大値)Cとチャンネルの周波数帯域幅Bの間には、以下のような関係がある。
ここでS/Nは信号対雑音比を意味する。(1)式から、S/Nが1よりもはるかに大きい場合には、以下のような関係が成立する。
すなわちS/Nを高めると、周波数帯域幅当たりのチャンネル容量が増加する。
一方で(2)式から、一定値のS/Nの下でチャンネル容量を増やすには、周波数帯域を拡大しなければならないことが分かる。すなわち、スペクトラム拡散によって周波数帯域を拡大すると、チャンネル容量が増える。
スペクトラム拡散による周波数帯域の拡大は他にも、利点がある。まず、妨害波(ジャミング)の影響を受けにくくなる。妨害波を発生させるのは、特定のチャンネルで高出力の電波を連続して発する無線送信器である。この無線送信器の近くに配置された無線受信器では、雑音の強度が増え、目的のチャンネルにアクセスできなくなってしまう。チャンネルが生きていたとしても、情報はほとんど取得できない。しかし、スペクトラム拡散によって受信チャンネルの周波数帯域幅を広げれば、妨害波の影響を受けるのは、信号の一部分だけになる。
続いて、フェージング(受信信号強度の突発的な変動)にも強くなる。無線の伝搬経路は固定されておらず、常に変動するし、反射波の影響を受ける。このため、無線電波はお互いに干渉し、強め合ったり、弱め合ったりする。これがフェージングである。フェージングによって受信強度(RSS:Received Signal-Strength)が一定の値を下回ると、無線受信器は受信信号を誤りなく復号(デコード)できなくなってしまう。
フェージングは、システムの物理的環境に影響されるので、ランダムな現象としてモデル化される。ただし、フェージングは特定の周波数に対してのみ顕著な影響をもたらすとの報告もある。この場合は、スペクトラム拡散がフェージングの影響を緩和する。
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