皆既日食では、太陽が完全に隠れる直前、そして再び顔を出し始めるときに、太陽の周辺にビーズ(数珠)状の輝きが観測される。この現象は、1836年に英国の天文学者Francis Baily氏によって初めて観測された。そのことを記念して、この現象は「ベイリービーズ(Baily's Beads)」と呼ばれている。皆既日食では、これ以外にもさまざまな現象が起きる。しかし、このベイリービーズの輝きに注目していると、ほかの現象を観察するのが難しくなる。
同様に、A-DコンバータのENOB(effective number of bits:有効ビット数)だけに注目していると、そのA-Dコンバータの性能の全体像を詳細かつ正確に理解するのは難しくなる。ENOBは、A-Dコンバータの代表的な性能指数であることは確かだ。しかし、それはA-Dコンバータのごく一部の性能、つまり、ノイズと歪(ひずみ)に関する性能を規定するものに過ぎない。ENOBだけに注目してしまい、落とし穴に陥ることのないよう注意しなければならない。多くの場合、A-DコンバータのENOBは、サンプリング周波数や電源電圧の範囲全体にわたって保証されるものではない。また、ENOBには、オフセットやゲイン誤差といった直流性能も含まれていないのである。
ENOBを計測する場合、入力信号としてはAC、DCのいずれでも使用できる。AC信号を使用する場合には、A-Dコンバータからのデジタル出力をFFT(fast fourier transform:高速フーリエ変換)で処理する。それにより、入力信号の基本波成分のほかに、ノイズと歪の情報が得られる。それらの結果からSINAD(signal to noise and distortion ratio:信号対雑音+歪)を求め、その値からENOBを計算することになる。ここで、SINADはTHD+N(total harmonic distortion plus noise)やSNR+D(signal to noise ratio plus distortion)と等価なものであり、SNR(信号対雑音比)とTHD(全高調波歪)を用いて次式により計算できる。
ここで、THDは主信号(入力信号)と高調波の比である。すなわち、主信号の周波数の整数倍の周波数成分(高調波)を用いた評価指標だ。高調波のうちのいくつか(例えば、2次から6次までの5個)の和(RMS値)を求め、その値と主信号振幅のRMS値との比を計算したものがTHDである。一方、SNRは、主信号振幅のRMS値と、DC成分ならびに前記の高調波を除くすべての信号成分のRMS値との比である。これらの値と上記の式を使ってSINADを計算することができる。さらに、その結果を用いれば、次式によってENOBを計算できる。
この式は、nビットのA-Dコンバータにより得られるSNR(入力は正弦波信号)の理論式を利用したものだ。すなわち、SNR=6.02n+1.76という式において、SNRをSINADに置き換えて変形した結果得られる式である。
ENOBの計測にDC信号を使用する場合には、デジタル出力のヒストグラムを利用する。このヒストグラムからは、入力信号の平均DC値とA-Dコンバータ内部で発生するノイズの値が得られる。すなわち、DC入力に対する出力データのバラツキの標準偏差(RMS値)を求めることになる。ΔΣ変調方式を利用したA-Dコンバータ(以下、ΔΣ型A-Dコンバータ)の場合には、DC信号を入力し、それに対する出力データを多数記録しておく。続いて、得られた多数のデータから標準偏差を求めれば、次式によりENOBを計算することができる。
ここで、σは標準偏差であり、nはA-Dコンバータのビット数である。ΔΣ型A-Dコンバータの場合、ENOBはオーバサンプリング比(またはデシメーション比)に依存して変化する。一般的に言えば、有効ビット数は出力データレートの増大とともに減少する。
AC信号を用いてENOBを計測する方法では、正弦波信号を入力とするダイナミックな計測を行うことになる。この計測方法は、SAR(successive approximation register:逐次比較)型、パイプライン型、フラッシュ型、高速なΔΣ型A-Dコンバータなどに適用されることが多い。一方、DC信号による計測は、低速なΔΣ型A-Dコンバータによく適用される。
計測方法がどちらであるかにかかわらず、ENOBは単純明瞭で有効な指標である。ただし、やや表面的な性能しか評価できないものであることに留意しておきたい。ENOBを何らかの判断に利用する場合、皆既日食の観測においてベイリービーズに隠れた現象をも観測しようとするのと同様の心構えが必要だ。ENOBだけに目を向け過ぎると、選択を誤ることにもなり得る。
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