上述したような事柄をクリアしたとしても、まだ深刻な問題が残る。TI社のBelnap氏も、「通常の計測では問題が見当たらないが、人間の耳には満足できる音質ではないということが起こり得る」と認めている。この主張は、よくあるオーディオ愛好家の勘違いとは異なる。人間の耳の感度は非常に高く、 D-Aコンバータ、アンプ、スピーカの組み合わせで生成する音声が、耳の肥えたユーザーの耳にどのように聴こえるのかということを定量的なテストで予測することはできないのだ。ハイエンドのオーディオLSIベンダーの中には、すでにこの現実に悩まされているところもある。National Semiconductor社のBridges氏は、以下のように述べている。
「ハイエンドの製品であっても、以前はサンプルとスペックシートを持参して、顧客にデータを提示するだけでよかった。しかし、最近では多くの顧客がスペックシートではなく実際に動作するリファレンスデザインを持参することを求めてくる。顧客はそれをすぐにオーディオルームに持っていき、実際に音を聴き始める。今日のハイエンド製品では、チップが作り出す実際の音がオーディオ品質そのものなのだ」。
このような状況から、いくつかの問題が生じる。1つは、多くの場合、設計者が特性評価に用いる環境のレベルはオーディオルームのそれよりも低いということである。Bridges氏は、「データシートは大抵の場合、抵抗負荷をベースとしている」と指摘する。しかし、非常に安定したアンプでない限り、ラウドスピーカのように動的に変化する反応型の負荷に対しては、通常の抵抗負荷の場合と同じようには動作しない。実際、TC社のLave氏は、「少なくとも、D級の完全なデジタルアンプにおいては、スピーカコーン表面の音圧レベルの制御は完全にスピーカに依存する。この業界では、専用のアンプを内蔵するアクティブスピーカが主流になるだろう」と予測している。つまり、さまざまな構成のスピーカが出力段に与え得るすべての動的な要因を制御可能なアンプを製造するのは、難しすぎるということである。
オーディオ愛好家の意見をよく聞くと、音質上の不具合の多くは測定可能な問題であることが分かるという(別掲記事『聴こえるものは、すべて測定可能?』を参照)。まったく不合理に思えたユーザーの感想が、ブラインドテストで再現可能なこともあるし、測定中に思い当たる現象が生じていたことに気付くケースもある。このような経験が積み重なりながら、特性評価のプロセスは複雑になっていく。
TI社シニアアプリケーションエンジニアのFred Shipley氏は、「われわれは、コストが許す限り“ドライな音”を目指している。そうすれば、顧客はわれわれが提供する音声をベースとし、デジタル信号処理とボードレベルのアナログ設計に調整を加えることで、それぞれが求める音質を作り出すことができるからだ」と語る。
Shipley氏によれば、このドライな音を目指したチップの特性評価作業の一部は、オーディオルームで長時間かけて実施されるという。同社のリファレンスデザインの音を、社内の熟練した技術者に聴かせるのである。
SoCがまさにシステムそのものであるというなら、その音質に関する最終的な責任を負うのはチップ設計者だ。そしてその音質は、仕様書に基づくものではなく、ユーザーの声に即したものでなければならない。NVIDIA社のMora氏は、「経験に基づくテストも必要だ。ユーザーにとっての『正しさ』は、彼らの文化的背景や嗜好などに依存する。例えば、アジア市場では、より高い周波数領域にエンファシスをかけることを好む傾向がある。欧州では、周波数特性は平坦で構わないが、音量が大きいほうが自然に感じるようだ」と指摘する。
では、そうした特性は定量的なものなのだろうか、それとも定性的なものなのだろうか。Audio Precision社の共同創設者で同社会長を務めるBruce Hofer氏は、「どちらの意見にも賛成する」と語る。同氏は、評価/テストと実使用との間のギャップを以下のように指摘する。
「耳には聴こえるのに、一般的な特性評価には現れないというのはよくあることだ。その一例として、パソコンのサウンドカードが挙げられる。パソコンの処理負荷が高い場合にソフトウエアの処理が時間内に終了せず、ユーザーにとって非常に耳障りな音の欠落が生じることがある。しかし、従来の評価/テストでは、そのような問題は発覚しなかった」。
その上で同氏は、「耳に聴こえるのならば、それを測定する何らかの方法があるはずだと信じたい。その方法を探るには、測定と試聴を繰り返すことだ」と語った。
耳の肥えた人にはさまざまなアーティファクトがはっきりと聴き取れるのに、従来の特性評価ではまったく問題が現れないケースがある。オーディオ分野のエンジニアが考慮すべき、オーディオルームと特性評価環境における微妙な違いを示す例をいくつか挙げてみる。
1つ目はWolfson社が開発した製品の例である。特性評価環境では、その製品の性能は優れていると判定された。実際、ダイナミックレンジは広く、歪は小さかった。しかし、オーディオ愛好家たちはその製品の音場が正しくないと主張した。設計者らが詳細に調べてみた結果、その問題の原因は、FIR (finite impulse response:有限インパルス応答)型デジタルフィルタのアルゴリズムにあることが分かった。その非常に一般的なアルゴリズムは、設計者らがフィルタ応答を確認した周波数軸での評価においては正しく機能していた。しかし、そのインパルス応答を時間軸で観測してみると、プリリンギングが発生していた。それによって生じた干渉を、人間の耳がとらえていたのだ。この問題に対処するため、Wolfson社は新しいFIRアルゴリズムを使用することになった。
ほかにも、高精度のD-Aコンバータにおけるスクランブル用アルゴリズムが無限ループに陥ってしまうという例があった。それにより、スパイクが繰り返し発生し、異音として聴こえていたのだ。従来の特性評価ではこの問題も検出されなかったのだが、長いデータ列に対してより詳細な線形性テストを行うことで、問題が確認された。
多くの設計者が指摘するように、オーディオルームでユーザーが聴いたと主張するものの中には再現不能であったり、実在しなかったりするものもある。しかし、よく調べることなくその試聴結果を却下するのは軽率な行動だといえる。TC社のMorten Lave氏によれば、次のような例があったという。
同社では、CDプレーヤ、アンプ、スピーカを組み合わせたシステムを2種類の接続形態で構成し、両者の音質を比較するという試聴テストを実施した。 1つはRCAプラグを用いたアナログ接続であり、もう1つは光ファイバを用いたS/PDIF(Sony/ Philips digital interface)接続である。その試聴テストの結果、人々はアナログ接続のほうが音質が良いと報告した。
Lave氏は、古き良きアナログのほうがデジタルよりも優れているというこの評価結果を当初は無視していた。しかし、後になって、そのテストがブラインドテストであったことに気付いた。つまり、テストに立ち会った人々は、どちらの接続形態の音声を試聴しているのかを知らされていなかったのだ。それにもかかわらず、アナログのほうが優れているという結果が出たのである。
同社の設計者が詳細な評価/解析を行った結果、S/PDIF接続における光変換機の立ち上がり時間と降下時間に測定可能な差異が存在することが分かった。この差異によってデータに依存するジッターが発生し、D-Aコンバータの出力に聴き取り可能な雑音が生じていたのである。Lave氏は、「最初は説明がつかないこともあるが、ブラインドテストの結果は信じるに値する」と述べた。
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