クロックのジッターの問題が顕在化したもう1つの理由は、デジタルオーディオ分野が拡大するに連れ、各種のfsが用いられるようになったことだ。表1から分かるように、民生分野では32kHz〜96kHzのfsが非常によく用いられている。DVDオーディオでは192kHzも使用できるが、著作権にかかわる問題から、192kHzでのデジタル出力を許可するソフトはほとんどない。
CDの時代には、fsは44.1kHzのみであった。加えて、一部のセパレート型高級プレーヤを除き、機器間での接続が行われることはなかった。このため、マスタークロック源としては1個の水晶振動子さえあればよかった。
しかし、デジタルオーディオ機器の高機能化や低価格化が進み、現在では1台で各種メディアの再生に対応できるユニバーサル型プレーヤが一般的である。この種のプレーヤでは、各種メディアのfsに対応するために何種類かのクロックが必要になる。また、DVDなどのようなビデオ機器では、画像と音声の同期が要求される。こうした背景から、デジタルオーディオ機器のマスタークロック源としてPLLが使用されることが一般的となった。
また、デジタルオーディオ機器が普及するに従い、その機器間の接続をデジタルオーディオI/Fを介して行うのはごく当たり前のことになった。例えば、CDからMDへデジタルコピーを行う場合や、ホームシアターシステムでDVDプレーヤとAVアンプをデジタル接続する場合によく使用される。そのためには、デジタル入力を有する機器にDIRを搭載する必要がある。そしてDIRでは各種のfsに対応し、それに同期したクロックをリカバリする必要がある。そのため、PLLが不可欠となる。
このような理由から、現代のデジタルオーディオ機器では、クロック発生回路として、PLLが使用されるケースが非常に多くなった。そして、先述したとおり、PLLで生成したクロックには水晶発振器で生成したクロックに比べ、大きなジッターが含まれる。
時計やタイマーのように時間精度が要求されるものなどは別として、通常のデジタル回路であれば、クロックの質が問われることはほとんどないし、実際、動作にも影響を与えない。では、なぜデジタルオーディオシステムでは、時間情報を与えるクロックが重要なのだろうか。
一般的なデジタル回路の世界でジッターが問題となるのは、それによってタイミングマージンがとれなくなり、データエラーが発生するケースである。つまり、ジッターが存在していても、タイミングマージンさえ十分にとれていればまったく問題はない*1)。
それに対し、デジタルオーディオシステムにおけるジッターの問題は、データエラーが起きるということは異なる。デジタルオーディオシステムでは扱うクロック周波数が低いため、タイミングマージンは十分にある。従って、多少のジッターではデータエラーは発生しない。
では、どのような問題が発生するのかといえば、デジタルオーディオシステムの前提であるサンプリング定理が完全には成立しなくなるのだ。つまり、サンプリングクロックのジッターにより、サンプリング間隔が時々刻々と変動してしまうことが問題なのである。このことは、データ自体の伝送や保存の上では問題にはならない。なぜなら、データエラーが発生するわけではないからである。問題が表面化するのは、A-D変換やD-A変換においてだ。A-D/D-A変換時のジッターは、サンプリング間隔を変動させる。言い換えれば、サンプリング定理に従った変換が妨害されることで、オーディオ信号に対して時間軸方向の変調が加わる。すなわち、ジッターは本来のオーディオ信号に対して歪(ひずみ)を与えるのである。その結果、全高調波歪率(THD +N)やダイナミックレンジ、S/N比(信号対雑音比)などのいわゆるオーディオ性能が劣化する。
ジッターが微小な場合には、オーディオ性能の劣化は数字としては現れない。しかし、聴き取り可能な音質の変化として影響が現われる場合もある。筆者は、これまでのデジタルオーディオ向けデバイスの開発において、各種のDIRを用いて試聴を行ってきた。音質評価用のモニターシステムにおいて、このDIRデバイスを変えるだけで、音質が非常に大きく変化するという経験をしている。その音質の変化は、単に「低音が出ない」、「高音が伸びる」といったレベルのものではない。良いものは音場や音像の再現性に優れる一方で、悪いものは、単調かつ平面的に音が鳴っているだけ、というレベルとなる。音質がどのように変わるのかを言葉で説明するのは非常に困難だが、可能な限り具体的に説明を試みると以下のようになる。
つまり、音楽の再生においては、その解釈が異なってしまうほどに音質が変化するのである。
また、デジタルオーディオ向けデバイスの開発においては、PLL回路をチューニングする過程でも試聴を行う。その際、PLLのループフィルタの定数を変えると、いわゆるジッターの量にはほとんど変化がない場合でさえも、明らかに音質が変化する*2)。
このように、ジッターは音質をも大きく変えてしまうのである。
クロックの質を定量的に表すにはどうすればよいだろうか。それには、以下の2つの方法がある。
時間領域では、クロックの質はジッター量で評価する。デジタル回路や高速シリアル伝送の世界では、この表現方法がよく用いられる。ジッター量はオシロスコープやタイムインターバルアナライザを用いて測定することができる。かつてオシロスコープによるジッター測定といえば、クロックのエッジの太さを測ることしかできなかった。しかし、近年のオシロスコープに搭載されているジッター解析機能を用いれば、ジッター量だけではなく、その変動の様子や周波数成分も測定できる。
一方、周波数領域では、クロックの質を時間軸方向の変調現象として扱う。つまり、キャリアに寄生するPM(位相変調)やFM(周波数変調)としてクロックの質を評価する。このため、周波数領域において、ジッターは残留PM、残留FMあるいは位相雑音と呼ばれる。実際には、多くのジッターは通常の通信で使用するPMやFMと比較するとデビエーション(周波数偏移)が微小であるため、狭帯域PMやFMとして現れる。これらはスペクトラムアナライザや位相雑音測定器を使用することで測定できる。
以下では、ジッターが及ぼす影響を具体的に見てもらうために、いくつかの実測結果を示すことにする。測定に当たっては、ジッターの量だけでなく、その成分にも注目したいので、スペクトラムアナライザを使用した。
※1…高速シリアル伝送をはじめ、ジッターの影響を受けやすいデジタル回路も増えてきている。例えば、SATA(serial advanced technology attachment)やHDMI(high definition multimedia interface)といった高速シリアル伝送分野では、ジッターによるデータエラーが特に問題になる。そのため、現在では多くのデジタル技術者もジッターの問題に直面している。
※2…ループフィルタの定数を変えることは、系の伝達関数を変えることに相当する。これに伴ってジッターの伝達特性が変化するため、音質が変化するのは特に不思議なことではないと考えられる。
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